葬式坊主検定試験テキスト(1) 仏教葬儀通論
1級葬式坊主飯澤派大僧正 飯澤昭裕 編
葬式坊主検定委員会教材部 監修
「仏教葬儀」とは
現代の日本で行われている仏教葬儀(以下、本テキストにおいては単に「葬儀」とする)は、宗派による例外もあるが、授戒・引導を特徴とする限り、世界的にも珍しい儀式であろう。ごく乱暴な表現をすれば、仮に故人が仏教に対する信仰や知識の片鱗さえない者であったとしても、これを没後に仏教に帰依させるのみならず、授戒作法で出家者に擬し、さらに引導で出家修行者の最高段階である成仏(解脱)に至らせるという強力無比な儀式である。この作法にしたがうなら、アメリカ大統領でもイスラム原理主義者のテロリストでも、すべて仏教の出家修行者として成仏させることができる。世界中の宗教を調べても、日本の葬式坊主以外には、こんな強烈なサービスを提供する宗教者は見あたらない。
よく言われているが、このような葬儀式は、祖先崇拝の儒教儀礼の影響を受けて、中世以降に成立し、近世の寺檀制度によって普及したものである。もちろん、仏教の源郷であるインドにその淵源を求め得るものではなく、古来の風習に遡り得るものでもない。
日本の例では、故人のため寺院を建立し僧侶に読経させた旨の記事が日本書紀などにも散見され、平安時代中期以降には、極楽往生を祈る念仏僧による臨終勤行が行われたが、前者は追善供養であり、後者は生前に行われる儀礼である点で、現代の葬儀とは異なる。追善供養と没後授戒、生前の臨終勤行と没後枕経のギャップは小さくない。
最初に刺激的なことを書いて申し訳ないが、葬儀は、このように、必ずしも仏教の教義や古来の風習と関係しない近世以降の日本に特有の儀礼であることを否定できない。そして、これが「葬式仏教」と貶称される理由となっている。
当然ながら、葬儀を主宰すべき各宗派の側では、葬式仏教との非難に対抗すべく、それぞれの教理に基づいて、葬儀の宗教的意味づけを行っている。本節の最初に書いた内容は、「ごく乱暴な表現」とことわったように、必ずしも各宗派の教理に整合しないであろう。成仏の意味づけあるいは用語も、宗派によって大きく異なる。また、授戒・引導をまったく行わない宗派もある*1。
いずれにしても、現代においては、葬儀式が少なくとも近世以来数百年の歴史を有する伝統的な儀式であることも否定できない。その伝統に依拠しながら、「仏式葬儀とはこうあるべき」との通念ないし宗教感覚が社会的に成立している。そして、授戒・引導を特徴とする現行の葬儀式が、故人あるいはその遺体を「仏(ほとけ)」と称して、本尊仏と並ぶ最高の尊格として扱う社会通念ないし宗教感覚と整合的である。もっぱら否定的な意味で捉えられることが多い「葬式仏教」という言葉であるが、本テキストでは、日本における仏教の発展形態として、肯定的に理解したい*2*3。
多種の宗派の葬儀を主宰すべき葬式坊主としては、各宗派の教理に深入りすることは望ましくない。各宗派で行われている式次第について、その正邪を論ずるなどは論外である。しかし、葬式坊主は、表面にあらわれる葬儀での所作に習熟するのみでなく、伝統的な仏式葬儀に対する各宗派の宗教的意味づけを理解しなければならない。葬式坊主は、社会通念ないし宗教感覚に照らして違和感のない葬儀を正しく遂行するほか、たとえば、喪主が戒名(と授戒)を希望しないとにき、どのような式次第を採用すれば、当該宗派の宗教的意味づけにとって最も抵抗が小さいかなどを、その場で判断して適切に行動できなければならないからである。
さらに、現代においては、葬儀の意義を軽視し、戒名を拒絶するなどの思想も見られる。引導や戒名は、仏教発祥の地であるインドでは行われていなかった儀式であるとする葬儀不要論や戒名不要論が主張され、あるいは、宗教社会学を根拠に、日本人の古来の死生観によれば死者の霊魂は自然の山河に宿ると信じられてきたと称して、墓不要論が唱えられる。上述のように、現在行われている仏式葬儀は、中世以降の日本で成立した儀礼であるから、これらの議論も理由のないものではない。世帯の小規模化が進み、儀式の簡素化を求める社会的な必然性もあるので、葬儀主宰を業とする葬式坊主は、これらの葬儀簡素化の社会的風潮とその理論についてもよく理解し、簡素化の要求に応じつつ、合理的な葬儀が行えるように努力しなければならない。
まとめ
- 葬儀は、読経・念仏・回向などの追善供養、位牌などの祖先崇拝の儒教儀礼、戒名の追贈などの出家授戒儀礼に基づいて成立した日本の伝統儀礼である。
- 葬儀作法については、各宗派が宗教的な意味づけを行っている。
- 世帯の小規模化のため、葬儀簡素化の社会的風潮がある。
- 葬式坊主は、社会通念や宗教感情、各宗派の宗教的意味づけ、簡素化の要求に配慮した合理的な葬儀が行えなければならない。
演習
- ある仏教系新興宗派の信者である遺族が、「位牌は禅宗によって持ち込まれた儒教儀礼で仏教と関係ないから用いるべきでない」と主張して、喪主と対立している。葬儀の導師を委嘱された葬式坊主はどのように対応すべきか。
- 喪主から、「故人は故郷の山に散骨してもらいたい遺志であったが、墓がなくなると困る」と相談された葬式坊主はどのように応答すべきか。
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1* | 真宗系では、授戒・引導を行わない。これは、往生は、すべて阿弥陀のはたらきとして、往生あるいは成仏させるべき葬式坊主の法力を否定するからである。 |
2* | このことは、当然ながら、布教活動の重要性を否定するものではない。 |
3* | 現代の日本において、葬儀は、仏教者の業務として、最も成功している分野である。これは、近世以降の仏教の歴史に由来するのみならず、各宗派の教理との整合性がよい点も見落としてはならない。葬儀や年忌法要以外で、これほど仏教が浸透している分野はない。
たとえば、各宗派は、仏前結婚式などの普及にも注力しているが、成功しているとは言い難い。仏式結婚式は、近代における神式結婚式の成功をまねて作られた新儀であろうが、結婚式を仏前でおこなうべきことを、仏教教理によって説明するのに無理がある。葬儀なら、導師の引導で成仏させ、あるいは、本尊のはたらきによる往生に感謝する(真宗系)などと説明できる。しかし、結婚は、当事者の契約であって、導師の法力によって成立するものではなく、本尊のはたらきによるものでもない。本尊が釈迦なら「結婚なんか止めて出家しろ」と言われるはず。また、出家に価値を求めない真宗系で考えても、阿弥陀の本願にも「結婚」はない。結局、本尊たる尊格や僧侶たる導師が結婚の契約などに関与すべき教理はない。(それに対し、結婚奉告参拝は、新たな世帯が檀信徒に加わることであるから、入信の儀式とも位置づけられ、誕生などの奉告参拝とともに、教理上にも無理がない。)
いずれにしても、葬儀の施行は、日本の仏教の重要な部分である。仏教者は、葬式坊主であることに誇りを持たなければならない。 |
一般的な葬儀の式次第
本節では、葬儀の式次第について、その歴史的背景や宗教的意義に言及しつつ、略説する。
葬儀を構成する式次第の名称は、宗派によって呼称が異なる。ここでは、本テキストを通じて用いる呼称(開始儀礼、授戒、引導および読経など)を示すとともに、その宗教的な意味づけについて、簡単に説明する。以下で、授戒などのように、かっこを用いずに表記した呼称は本テキストが説明のために採用した一般名称であり(宗派によっては教理に反することもあろうが、説明のための一般名称としてご理解いただきたい)、「血脈授与」のようにかっこを用いた表記は特定の宗派による呼称である。
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開始儀礼
導師入場のあと、導師は、一般的に儀式の趣旨を宣言する祭文などを読む。ここで礼拝の対象となる諸仏の勧請する呪文が唱えられることがあるが、その内容は、宗派によって著しく異なる。祭文と勧請呪文の順序も宗派による。
この開始儀礼は、導師単独で行われ、導師以外の僧侶が列席する場合も唱和しないことが多い。
授戒
引導に先立って、故人を出家者とする作法が行われる。戒律を授ける狭義の授戒のほか、剃髪(形式的にかみそりを棺に置くだけのことが多い)、宗派によっては師弟関係を証明する「血脈*1授与」などが行われる。これらの作法は、僧侶の得度式や潅頂式などを模したものである*2。
故人を出家させ、導師が故人の師僧となる形式であるであるから、導師が単独で行うべき作法である。論理的には、この際に戒名を与えるべきであるが、葬儀においては、あらかじめ戒名を記した位牌を用意しなければならないので、戒名は葬儀の開始前に授与もしくは内示することがある。
故人が僧侶である場合は、この授戒は不要であり、省略される。また、枕経または通夜の段階など、葬儀の前にこれを済ませることもあり、この場合は葬儀での授戒は行われない。また、葬儀開始の直後に(1の開始儀礼の前に)、授戒を行うこともある。
なお、故人が他寺の檀家である場合、その寺による授戒を遺族が希望するなら、葬儀式の導師は授戒(戒名の授与)を控えるべきである。
引導
2で出家者に擬した故人を死後の世界に送る趣旨の儀礼であり、真宗系を除いて、葬儀の核心的な作法として意味づける宗派が多い。もっとも、「成仏」や「往生」が関係する作法であるので、その意味づけは宗派によって著しく異なり、一般的な説明は困難である*3。徳を積んだ僧侶に対しては、引導不要とする宗派もある。
読経
葬儀では一定時間の読経を行う。この読経は、葬儀の式次第との宗教的な関係が薄く、本尊を礼拝すべき日常勤行の延長で、実際には、参列者焼香のバックグラウンドの音声として機能する(宗教者が関与しない無宗教葬では、献花などの際に音楽を演奏することが多い)。用いられる経典も、日常の勤行に用いられるものと大差ないが、天台宗などのように、阿弥陀経などの往生に言及した経典を選好する宗派もある。
読経は、このような性格のものであるので、長時間の弔辞が予定されるなどの場合は、これを省略することも不可能ではない。合同葬儀の場合は、引導を各別に行うが読経は1回のみとする。
一般的には、各宗派の根本経典として扱われている経典のうち、10分ないし30分程度で読むことができるものが選ばれる。経典が短い場合は、数編を連続して読経する。複数の僧侶が参列する場合は、導師以外の僧侶も唱和する。僧侶以外の参列者にも唱和させる例もある。
なお、引導の前に読経を行うこともあるが、引導などの核心的な儀礼の終了後の方が、時間調整の目的には適合する。
終了儀礼
一般的には、読経の後に、導師が読経の功徳を故人または施主に与えることを願う呪文を唱える。その後、導師は、出棺を待たずに退席することが多い。
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上記のうち、授戒と引導は 戒律を認めない真宗系では行わず、故人を在家信者としたまま葬儀が行われる(もっとも、真宗系でも、故人を僧侶に擬して棺覆いに七条袈裟が用いられることもある)。また、創価学会系では、最近では宗門(日蓮正宗)との対立を反映して、創価学会幹部(俗人、非僧侶)を導師とする葬儀が行われる。この場合は、導師が在家信者である関係で、授戒が行われず、戒名の授与もない。 本節の最後に、年忌法要などの葬儀以外の法要についても言及しておく。これらの法要の場合、故人にはすでに授戒・引導が行われているので、その式次第は、開始儀礼、読経、終了儀礼のみとならざるを得ない(ほぼ日常勤行と同じ)。
多数者の合同葬儀(ペット葬も含む)などの変則的な葬儀においては、授戒と引導を省略せざるを得ないことが珍しくない。遺族が戒名の授与を希望しない場合に、授戒・引導がなければ葬儀が行えないとするのは、伝統坊主の誤解である。このような場合は、年忌法要などの式次第を念頭に置きながら、式次第を組み立てることにより円滑な葬儀が行えるであろうし、そのような変則的な要求に対応できるのが有能な葬式坊主である。
まとめ
- 葬儀は、一般的に1.開始儀礼、2.授戒、3.引導、4.読経、5.終了儀礼に分けられるが、一部の手順を行わないこともあり、その順序が前後することもある。
- 授戒と引導は、各宗派により様々に意味づけられていて、宗派による差異が大きい。たとえば、真宗系ではこれらを行わない。
- 故人が他寺の檀家である場合、遺族がその寺による授戒・引導を希望するなら、授戒せずに俗名のまま葬儀を行う。
- 授戒・引導を省略するときは、年忌法要に類似した式次第を用いる。
演習
- 喪主の宗派を確認して、その宗派の根本経典を読経に用いたが、喪主から、「そんな経典は聞いたことがない。経典を間違っている」と言われた。葬式坊主はどのように応答すべきか。
- すでにある宗派の式次第による葬儀が終了して埋葬された骨灰に対して、他の宗派の儀礼に基づいて、あらためて供養したいとの申し出を受けた場合、葬式坊主はどのように対応すべきか。
- 喪主に「成仏」または「引導」の意義を問われたとき、葬式坊主はどのように応答すべきか。各宗派に相応する回答例を作れ。
- 短時間での葬儀を求められた場合、式次第の一部を書面化することができるか。たとえば、授戒書の交付とその納棺で授戒作法にかえることができるか。
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1* | 「血脈」とは祖師から代々伝えられた師弟関係のことであるが、これを証する書面の意としても用いられる。書面には、開祖から授与者である導師に至る師弟関係と被授与者をこの師弟関係に加える旨が記されることが多い。これによって、被授与者が開祖の「血脈」を受け継いだ正統の弟子とされる。 |
2* | 葬儀で行われる授戒について、これを僧侶の得度と区別して、「在家者としての戒律授与」と説明し、生前授戒(と戒名)を奨励する宗派もある。原始仏教においても、出家者の戒律と在家者の戒律が併存していたので、この説明も不自然ではない。しかし、この戒律を在家者に授与する授戒儀礼は、中世以前には例がなく、近代に僧侶の得度を模して作られたものである。歴史的な発展にしたがって叙述すれば、「(1)得度式(僧侶の生前授戒)の成立 → (2)得度式を模した没後授戒を含む葬儀式の成立 → (3)没後授戒の意義への反省と生前授戒式の成立」の順とせざるを得ない。戒名論で詳述する。 |
3* | ごく粗い説明になることを承知で、宗派別の考え方を略説する。
原始仏教では、成仏とは文字どおり覚り(菩提)を得て仏の位に達することで、これは出家修行者の究極の目標とされた。この考え方をとる禅宗系各宗派では、成仏者は輪廻転生から解脱して、涅槃の状態に至ると考える。輪廻を解脱するので、他の仏世界などに往生することもない。引導とは出家修行者に擬した故人を仏の位に達せしめる作法と説明される。
法華系や浄土系の各宗派では、故人は仏の位に達して、涅槃に至るのではなく、聞法者として別世界である浄土に往生すると説く。引導は、故人を浄土へ送り出し、あるいは、故人が浄土へ往生したことを宣言する作法と考えられる。 |
葬式坊主の職能
仏教葬式通論の最後に、葬式坊主の職能について説明したい。葬式坊主は、葬儀の主宰者である。葬儀前には葬儀檀などを設営し、葬儀中はその導師を勤め、葬儀後は葬儀檀を撤収しなければならない。当然ながら、葬儀前後の清掃も葬式坊主が責任を負うべきであろう*1。
このように書くと、現状との違いに違和感を感じられる人が多いかも知れない。現状においては、専門業者、いわゆる葬儀屋が葬儀場の設営一切を行い、参列者がすべて着席した後に葬式坊主が登場し、葬儀が終わると他の参列者に先立って葬式坊主が退出する例が多い*2。本テキストでは、このような現状を許容できないと考える。葬儀場の設営を葬儀屋にまかせ切りにするのは、各宗派の教理から考えても許されないのではなかろうか。
葬儀場は、本尊を安置して法要を営む場所である。一時的ではあるが、寺に比すべき場所であり、葬儀檀は寺の内陣に相当する。寺の本尊と内陣の荘厳を業者任せにする住職はいない。本尊が安置されたら開眼などの法要を営む。これとの整合性を考えても、葬儀場の設営は、葬儀式の主宰者、すなわち葬式坊主が責任を負い、葬儀開始前に本尊に対して何らかの儀礼を行うべきである*3。また、寺を解体するときに、本尊を放置したまま、真っ先に転居する住職もいない。本尊撤去の前には然るべき法要が営まれる。葬式坊主は、葬儀終了にいったん退席し、参列者の退出を待って、本尊撤去の儀礼を行い、本尊と葬儀檀を自ら撤収するべきであろう*4。また、寺の清掃は寺僧が責任を負うのが当然である。葬儀場だけを放置してよいものではない。葬式坊主は、葬儀場の後片付けにも、責任を持たなければならない*5。
もちろん、葬式坊主のみで葬儀場の設営などが行えないときは、専門業者、いわゆる葬儀屋を用いることもあろう。近世では、もっぱら近隣住民が葬儀の進行を行っていたらしい。これらの場合でも、葬式坊主が主宰者であり、葬儀屋や近隣住民はその補助者である。葬儀屋を用いるときも、これが葬式坊主の補助者であるとの本義を忘れてはならない。
現在においては、寺檀関係の崩壊とともに、葬式坊主が葬儀屋の下請け業者と化する現象も見られる。葬儀屋が葬儀場の設営などを行い、葬式坊主の関与がないために、葬儀檀がいたずらに華美になるだけで、教理に整合しない荘厳が行われていることも珍しくない。そして、葬儀屋に紹介された葬式坊主は、それを修正することも許されないまま、お布施の一部を紹介料として葬儀屋にバックしている。葬式坊主は、最後に入場し、上席に座り、そして最初に退出するという「最上位者」を演じながら、実は、葬儀屋の「下請け」に貶められている。詳しくは、坊主経営論で説明するが、この責任は、重要な宗教施設であるべき葬儀場の設営にまったくタッチしなかった葬式坊主の側にもある。力関係から、葬儀屋に逆らえない場合でも、せめて本尊だけは、葬式坊主が自分で用意し自分で持ち帰る程度のことはできるであろう。葬儀の合理化には、葬式坊主の意識改革が重要である。
まとめ
- 葬式坊主は、葬儀の主宰者である。葬儀場は、法要の場として、寺院にも比すべきものであり、その設営と撤収は、葬式坊主が責任を持って行わなければならない。
- 葬儀屋は、葬儀主宰者である葬式坊主の補助者である。葬式坊主は、葬儀屋の下請けではない。
演習
- 葬儀場の後片付けが終わらないうちに、火葬場への同行を求められたとき、葬式坊主はどのように対応すべきか。
- 葬儀屋が設営した荘厳が明らかに不適切なときは、葬式坊主はどのように対処すべきか。
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1* | 葬儀檀は、寺院外の礼拝場所として、在家仏壇とパラレルに考えることもできる。しかし、葬儀檀の場合は、もっぱら葬式坊主が導師となる葬儀に用いられるだけなので、葬式坊主は、主として在家者の礼拝用に用いられる仏壇より重い責任を負うべきであろう。 |
2* | 寺院における法要では、すべての準備が整った後、最後に導師が高座(礼盤)に登り、法要の主要部分が終わると、最初に高座から降りる。これを敷衍すると、葬儀式でも導師が最後に登場し、最初に退出することが正当化されるようにも思える。しかし、寺院においては、導師は、高座から降りても、内陣を出るだけで、決して寺院から退出しない。 |
3* | 本尊の取り扱いについては、各宗派の教理によることになるが、仏壇の本尊に対して、開眼などの儀式を行う宗派の場合は、葬儀檀の本尊に対しても同じ作法で臨むべきである。 |
4* | 現在の葬儀式においては、本来、入棺から火葬、その後の埋葬に際して行われていた儀式をすべて葬儀場で行ってしまうことが通例である。このような式次第に照らすと、葬式坊主は、出棺後に火葬場まで同行することは、必須ではない。火葬場で行うべき法要を葬儀場で終えることもできるからである。火葬場に同行するより、葬儀場の後片付けの方が葬式坊主の本務と考えてよい。 |
5* | 修行の一環として清掃などの作務を重視する宗派で、他宗派より際立って派手な七条袈裟を着用するのは、ブラックジョークにも思える。もし、これらの宗派が作務を重要な修行と考えているなら、葬式坊主に豪華な袈裟を着用させるのではなく、清掃用具と台車などの運搬具を持参させるべく清規を改めるべきではなかろうか。
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宗派を包括宗教法人ないし宗教団体の単位で計数すると多数となるので、ここでは、真宗系、真言宗系、法華系、浄土系、禅宗系に大別して各宗派の式次第を概観する。宗教団体に固有の名称と区別する意味で、法華宗および浄土宗の名称を回避し、それぞれ法華系、浄土系とする。葬儀の式次第を概観するためには、上記の5系統でほぼ足りると思われる。大規模な宗派では、このほか天台宗などがあるが、天台宗の寺院は、浄土系、真言宗系もしくは法華系の葬儀儀礼を採用することが多い(歴史的には、多種の経典と律・禅などを併修する天台宗の一部門が独立したものが浄土系などの宗派である)。
なお、以下の説明で、特にことわらない限り、「偈文」とは漢文の詩句、「呪文」は梵語または意味不明の単語を指す。経典の名称は各宗派で慣用されているものにしたがい、必要に応じて、「SATxxxx(x)」の註により、大正新脩大蔵経目録(大蔵出版、1924-1934)の通番と巻数を付記した。
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真宗系
歴史的には、浄土宗から派生した宗派で、西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派(以下、「本願寺派」とする)、東本願寺を本山とする真宗大谷派(以下、「大谷派」とする)などの多数の派に分かれる。全国レベルで考えると現在のところ最大の宗派であろう。祭壇には本尊として阿弥陀名号(「南無阿弥陀仏」)の掛け軸を掲げる。
開始儀礼は、真宗系各派によって相当に異なる。諸仏勧請の偈文としては、本願寺派では、「三奉請(諸仏の入場を請う善導の法事賛SAT1979(47)の一節を改作したもの)」が用いられることが多い。それに続いて和文で葬儀開式を告げる祭文(「表白」と称する)を読む(導師焼香が先行する)。
真宗系では授戒・引導はない(戒名の語句も使用せず「法名」という)*1。「表白」に続いて、ただちに読経が行われる。葬儀では、「正信偈(親鸞の教行信証に含まれる偈)」が唱えることが多いが、そのほか、和文の「御文章(蓮如の書簡で、大谷派などでは御文と称する)」を読むこともある。
回向文(観経疏SAT1753(37)冒頭の帰三宝偈ないし勧衆偈末尾)を唱えて終了儀礼とする。
真言宗系
高野山真言宗のほか、新義真言宗に属する数派がある。天台宗の密教儀礼も真言宗系に類似する。
開始儀礼としては、「三宝礼」や「加持供物」(豊山派では「奠供」)の呪文が唱えられるほかは、真言宗系各派によって違いが大きい。高野山真言宗では「洒水」の作法が行われることがあるが、これは潅頂作法ではなく、道場と遺体を浄める開始儀礼の一部と考えられる。
授戒は、「剃髪」、「授戒」などの作法で構成され、この作法の際に戒名を授与する(現実には事前に戒名を与え位牌を準備することが多い)。
導師は、授戒に続いて、引導の作法を行う。引導は、故人の成仏を願う旨を表明し(「表白」と「神分」)、印を結びながら呪文を唱える作法である。真言宗系では、故人は宇宙の根源である大日に還ると考えるため、大日を象徴する「ア(「梵字」と称する悉曇書体)」字を指で描く引導作法が用いられる。引導の最後に、潅頂にかえて五鈷杵で棺または遺体に触れる作法(「五鈷杵授与」)を行う。故人をたたえる祭文(和文)が読まれる。
引導に続いて、読経が行われる。導師以外の僧侶が参列する葬儀では、導師が引導作法を行う間に読経が開始される。読経には理趣経SAT243(8)の一部を漢音で読むことが多い(呉音・漢音については、「日本と中国の漢字音」参照)。
)。
回向文(法華経SAT262(9)化城喩品(第7)の偈を用いることが多い)を唱えて終了儀礼とするが、ここでも印を結ぶ作法がある。
法華系
法華経を最上の経典とする宗派で、身延山久遠寺を本山とする日蓮宗のほか、富士門流系の日蓮正宗などがある。いずれも、強力な在家信者団体を有する大規模な教団である。祭壇には本尊として法華経の題号(「南無妙法蓮華経」)を含む大曼荼羅の掛け軸を用いる。
開始儀礼は「三宝礼」、諸仏勧請の偈文(「奉請」、出典不明)が用いられる。茶湯や霊供膳を供える作法がある(通例では事前に供えておき、この作法を省略する)。故人はすでに法華経を護持する在家または出家の信者であるとの建て前から、日蓮宗では、授戒は行われず、戒名は「法号」と称する。
その後、導師によって引導が行われる。「引導」の語句は用いるが、成仏は、導師の引導ではなく信仰によって決まるとされる教義で、その意味づけは他宗派と異なる。導師焼香のあと、成仏した旨の和文の引導文を読み上げる。なお、近年において、在家信者団体であった創価学会が日蓮正宗と対立関係を続けているらしく、非僧侶が葬儀の導師を務めることがあり、この場合は、引導を行わないらしい。
引導に続いて、「開経偈」を唱えて読経が行われる。読経には、法華経SAT262(9)方便品(第2)または如来寿量品(第16)の偈が用いられるほか、「称題」が行われる。
回向文を唱えて終了儀礼とする。
浄土系
知恩院を本山とする浄土宗のほか数派がある。専修念仏を説く法然を開祖とする宗派で、祭壇には本尊として阿弥陀名号(「南無阿弥陀仏」)の掛け軸を掲げる。
開始儀礼、読経、終了儀礼は、ほぼ真宗系と同じである(開始儀礼の諸仏勧請の偈文は漢音の「四奉請」が用いられるほか、「三宝礼」も行われる)。
戒律を認めない真宗系とは対照的に、浄土系では、授戒と引導を重視する。授戒は、「報恩偈」を唱えながら剃刀を故人の頭または棺にあてる作法で、枕経または通夜の機会などの葬儀の開始前に行うことが多い。引導は、「下炬(あこ)」と称する炬火を用いて火葬を模する作法で、和文の引導文が唱えられる。これに先立って、鎖龕(閉棺)、起龕(出棺)などの作法が先行することもある。いずれにしても、この宗派の引導は、火葬を形式化して葬儀場で演じる儀式なので、故人が僧侶の場合も行われる(天台宗もほぼ同じ)。
読経には、「開経偈」に続いて、無量寿経SAT360(12)の一部や阿弥陀経SAT366(12)などが用いられる。
回向文を唱え、念仏を繰り返えすほか、終了の偈文を唱え、終了儀礼とする。
禅宗系
曹洞宗、黄檗宗のほか、臨済宗系諸宗派がこれに属する。修行による自らの成仏を重視する教義なので、特定の尊格を本尊とすることはない(釈尊は宗祖に伝えられた師弟関係相承の祖師とされるので、釈迦と宗祖のほか、開山上人などを併祀することが多い)。
禅宗系では、出家修行による成仏を説くので、故人を出家者に擬して葬儀を行うことが前提とされる。そのため、開始儀礼を行わないまま、授戒を始めることが通例である(授戒を開始儀礼に先行させる方法とも考えられる)。授戒は、「剃髪」、「授戒」のほか、「血脈授与」が行われる。「血脈」とは、師弟関係を証する文書で、釈迦から宗祖を経て導師に至る「血脈」に故人を加え、故人を導師の弟子に擬する。実際には、あらかじめ用意した「血脈」を香に薫じ、あるいは棺に入れる。引導は、炬火を用いて火葬を模する作法であるが、偈文を唱える。引導に前後して、和文の「入龕諷経」、「山頭念誦」などが唱えられることもある。当然ながら、故人が僧侶の場合は、授戒は行われないが、引導は行われることもある(修行の完成を途中で物故した故人の修行完成を願うため)。
読経には、遺教経SAT389(12)などが用いられる。 回向文を唱えるほか、終了の偈文を唱え、終了儀礼とする。
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・ ・ ・ ・ ・
1* | 「法名」の授与は、一般的には枕経の段階で行われる。本テキストの説明にしたがい、これを授戒と考えると、授戒を葬儀に先行させる方法となる。 |
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