2003年3月、内閣総理大臣小泉純一郎と外務大臣川口順子(以下、「小泉ら」とする。)は、米英によるイラク攻撃を「支持」した。米英軍は、多数のイラク人を殺傷しつつイラク領内に侵攻を続け、同4月、首都バグダッドを占領するにいたった。本稿では、小泉らの行為について、日本刑法の視点で、小泉らの可罰性を検討したい。なお、本稿は、理論上の処罰可能性を議論することを通じて、刑法理論の考究をすすめるものである(もちろん、「告発可能性」を検討する実践的要求から生じたテーマである)。内閣総理大臣の訴追同意権(憲75条)などの問題もあり、現実の起訴可能性等に言及するものでなく、また、当然ながら有罪判決を予想するものでもない。
今回の戦争の構図を考えると、国際法廷における審理を連想するのが自然と考えられる。しかし、国際法廷は、その設置規程に「管轄(jurisdiction)」を定める例である。国際法廷に関する管轄の定めは、日本法の言葉に置き換えると、裁判権と事物管轄を定めながら、刑事事件の場合は、同時に刑罰実体法規上の構成要件をも定める規定である(たとえば極東国際軍事法廷設置条例、Charter of the International Military Tribunal for the Far East、5条)。近年でもユーゴスラビアなどに特設法廷が設けられているが、その管轄に照らすと小泉らを裁くべきものはない。さらに、現在においては、常設の国際刑事法廷として、ローマ協定(1998年7月採択、2002年7月発効、ただし日本は未締約)による国際刑事裁判所(International Criminal Court)がある。しかし、同裁判所は、現在のところ人道に対する罪、ジェノサイド、通常の戦争犯罪を「管轄」としているに過ぎない。かかる国際法廷の設置と充実を促す運動に敬意を表しつつも、小泉らを審理すべき国際法廷は現在は存在しないと考えざるを得ない(国際刑事裁判所による処罰は、日本が未締約という手続上の問題に加え、米英軍の行為が戦争犯罪としても、小泉らを「陸戦法規等のジュネーブ条約違反の共犯」とすることには困難を免れない)。
最初に、報道にそって事実の推移を略述する。イラクに対する武力行使の危機が高まりつつあった2003年3月18日、アメリカ合衆国大統領ブッシュは、軍事行動の条件付開始を宣言した(資料1(1))。この「軍事行動」は、同じ演説で「戦争」として言及されているように(資料1(2)および同(3))、兵力により敵国(イラク)のの兵員を殺傷することを目的とする国際法上の戦争を指称する。なお、この時期において、イラク側が他国に対して武力行使を行うべき何らの兆候もない。
ブッシュの演説を受けて、内閣総理大臣小泉純一郎は、同日の記者会見で、「私(総理)は、米国の方針を支持します」と発言した(資料2(1))。これは、個人の意見を述べるにとどまらず、その当時、反対意見が多かった国際世論を意識しながら、日本国がこれを支持する趣旨であり、日本国はその後のアメリカ合衆国大統領ブッシュによる開戦演説でも、開戦の背景として述べられた「35を超える」(資料3(2))として言及された支援国の一国とされた。小泉純一郎の発言が、ブッシュに戦争開始の決意を固めさせ、あるいは戦争への反対動機を失わせるために何らかの作用を及ぼしたことが見て取れる。さらに、小泉純一郎は、当該演説において、「イラクの戦後復興」に関して「日本は主体的に判断していきたい」としながら、その支援を匂わせる発言を行った(資料2(2))。
その後、2003年3月20日に至って、アメリカ合衆国大統領ブッシュは、イラク全土の占領を目的として、イラクへの武力行使を命令し、戦争(以下、「本件戦争」とする。)を開始した(資料3)。小泉らは、これを受けて閣議を開催し、本件戦争への支持と「復興支援」を行う意思を明らかにした(資料4)。本件戦争により、イラク国民に多数の死傷者が発生するにいたった(この点の資料省略)
2003年3月20日の開戦直前に行われた外務大臣川口順子の記者会見によると、小泉らは、安保理決議に基づかない戦争が自衛の場合を除き違法であること、および本件戦争が自衛のためのものでないことを確定的に認識していた(資料5(1))。さらに、「誤爆」による死傷が生じ得ることも知りつつ、「注意してやってほしい」と発言した(資料5(2))。
本件戦争が正当行為であるか否かは別論であるが、この検討を一旦措いて日本刑法の罰条に照らせば、本件戦争を命じたアメリカ合衆国大統領ブッシュに殺人、傷害、放火等が成立し得ること、さらに、これを支持した小泉らに、精神的幇助ないし後始末の助力を申し出たことによる幇助犯成立の可能性があることを否定できない。当然ながら、日本刑法の属地主義(刑1条1項)を考慮すれば、国外犯であるブッシュを日本刑法で処罰する可能性はない。しかし、同じ刑法の属人主義(3条)によって日本人である小泉らを、これらの罪の共犯として処罰することは不可能であろうか(ほかに爆発物取締罰則違反もあり、形式的な構成要件のため、実務上は魅力的であるが、同罰則は属人主義による処罰を定めるものでないので、今回は検討しない)。
説明の都合もあり、次の順で検討したい。最初にブッシュの行為の違法性である。この「違法」は判断すべき準拠法も一応は問題となるが、ここでは、もっぱら日本刑法の正当行為(刑35条)との関係で、その違法性阻却がないことを示したい。次に、小泉らの関与形態であるが、これが幇助犯であることを説明する。最後に、正犯者が属地主義によって処罰されないときに、幇助犯を処罰し得るかが問題となる。先にブッシュの行為の「違法性」などと言ったが、そもそも日本刑法の適用がない行為に対し、その構成要件該当性や違法性を観念し得るのかという問題を含めて、この点が本論稿の最大のテーマとなる。
本件戦争は、ブッシュ側はイラクの全土を占領下に置くことを目的とし、その手段においてイラクの兵力に属する者を直接に殺傷する行為を行っているので、国際法上の戦争とせざるを得ない。これが適法か否かを定める規範は、第一次的には国際法である。往時においては、戦争は国家の権利とされた時期もある。しかし、今日においては、戦争が原則として違法であることに多言を要しない。国連憲章に基づいて一応の説明を試みるなら、国家間の紛争は、平和的手段による解決が求められ(国連憲章33条)、戦争は、自衛の場合を除き(同51条参照)、安保理が行うもののみが適法とされる。もちろん、国連や安保理が常備軍を有するわけではなく、安保理決議に基づいて、各国の軍隊が用いられるが(いわゆる「国連軍」)、戦争の主体は、各国ではなく、安保理である(国連憲章42条参照)。換言すれば、戦争は、自衛の場合を除き、一方の当事者が国連軍である場合のみ「合法的」な戦争となり得る。詳細は、国際法学者のアピールのページ(資料6)を参照されたい。
かかる国際法の規定と日本刑法における違法性概念との関連は、一応問題となる。国際条約と憲法の形式的効力の優劣などに関しては争いがある。しかし、確立した国際法が国内法に優越することは一般に認められている(いわゆる国際法優位の一元論)。仮にかかる論をとらないとしても、日本刑法の解釈においても、たとえば、刑法35条の正当行為の解釈に関して、国際法が参照されなければならないことについて問題はなかろう。国際法上の違法性と国内の刑法理論における違法性の関係は、以下に略述する。
現在においては、特別の例外を除き、犯罪者処罰は各国家の国内法の問題とされている。処罰法規が国家によって異なることからもわかるように、国家は国内法においてある種の行為の不処罰を定めることができる。これは、各国家に対して特定の犯罪者の処罰を命じる国際法規範が一般的に成立しているとは認められず、国際刑事裁判などの少数の例外を除き、犯罪者の処罰は各国家の判断に委ねられているからである。不処罰とする理由も各国家の任意であるから、ある種の行為について当該国家の刑法上で「違法性阻却」を定めることもできる。しかし、この違法性阻却は、当該国家における不処罰の理由に過ぎず、国際法上の違法性を解除することを意味しない。各国家にこれを許すと「違法」を定める国際法は無意味となるからである。また、現在の国際法規範は、ある国家が他国に対して不処罰を命じることを認めるものではないから、ある国家による「違法性阻却」は、他国における可罰性に影響するものではない。
以上の帰結として、ある国家が戦争を「合法」とする趣旨の国家行為を行っても、その国家において行為者を不処罰とする可能性が生じるに過ぎず、当該行為の国際法上の違法性や他国の刑法理論における違法性とは関係がない。たとえば、アメリカ合衆国において戦争を授権する旨の法律や議会決議によって、アメリカ合衆国における不処罰の可能性は生じるが、これはアメリカ刑法の問題である。繰り返すが、国際法は違法を定めるだけで、犯罪者の処罰を命じるものではない。アメリカ合衆国が行為者を処罰しないのは、その国家の任意である。しかし、当然ながら、かかるアメリカ議会の立法措置や決議は、国際法における違法性判断にも、日本刑法における違法性判断にも関係がない。一方、日本における同旨の行為は、日本刑法の問題である。処罰を排除する趣旨ならその効力が認められ、そうでないなら違法性判断に影響を与えず、せいぜい合法性を信じて行動した行為に法律の錯誤の問題が生じ、依拠する刑法理論によっては、故意責任等に影響する可能性があるにとどまるとするのが日本刑法の立場であろう*1。
1* 「処罰を排除する趣旨」の国家行為としては、日本法においては、たとえば刑法の当該罰条の廃止、大赦などのほか、天皇や摂政の不訴追がある。これらによって国際法に反する行為の違法性が治癒されるわけではないが、日本刑法による処罰は不可能となる(これを刑法理論のどこに、たとえば公訴権消滅、構成要件該当性消失、あるいは違法性阻却に位置づけるかは日本の国内法の問題である)。一方、その国家行為が処罰の排除を明示しない場合は、公務員の誤った教示に基づいて行動した場合と同様に、その違法性を阻却することなく、故意責任の問題とするのが日本刑法の考え方であろう。なお、本件戦争が違法であるとの確定的な認識が小泉らに存していたことは、前述の「事実の推移」を参照されたい。
小泉らには殺人の実行行為は認められず、また、ブッシュの犯意がいつ形成されたのかは、これを不明とせざるを得ないので、正犯者との共謀や教唆の認定は困難であろう。先に述べた事実の経過にて照らすと、小泉らの関与形態は幇助とすべきである。
幇助犯は、一般には「正犯の実行を容易にする一切の行為」などとされるが、この素直な解釈からは、大谷説のように「正犯実行行為との間に物理的または心理的因果関係があれば」という結論になり、おそらくこれが実務に近い。もちろん、純粋に理論的には、たとえば惹起説を徹底して、殺人罪のような結果犯で結果にまで因果関係を求めると、精神的幇助をほとんど否定するような結論もあり得る(すでに犯意のある正犯者への精神的幇助は条件関係が否定される)。しかし、このような考え方は一般的でなく、いわゆる精神的幇助による処罰例は多い。
もちろん、幇助犯の成立にも、ある程度以上のレベルでの「関与」が求められる。精神的幇助を認める通説によっても、単純な発言によって容易に幇助犯の成立を認めると、たとえば「言論の自由」などとの関係で緊張関係を避けられない。もっとも、本件では、小泉らの支持発言は、仮設的な可能性に対する賛否ではなく、現に正犯者の行為が始まろうとする時点において、これを助勢する支持発言である。また、「事実の推移」でも述べたように、日本国の「支持」を国家機関たる内閣総理大臣ないし外務大臣として発言したものであり、主犯者によって、ある国家が戦争を支持したものと受け止められ、これが主犯者に戦争開始の決意を固めさせ、あるいは戦争への反対動機を失わせるために現実の作用を及ぼしたことが推測される。この程度に達する精神的関与を幇助として処罰することに問題はなかろう。
さらに、小泉らは、「戦後復興」への関与を発言している。これは、占領地の行政が占領軍の権限と責任に属することに照らすと、実質的に犯行現場の後始末の援助である。実際の援助は、正犯の実行行為終了後に行われるが、有形的な幇助と考えるべきである(逃走手段の用意と同じ)。犯行前に言明されているので、もちろん、いわゆる事後共犯ではない。
刑法の属地主義によって正犯者が処罰されないときに、共犯者(本件戦争では幇助犯)を処罰し得るかは難問である。直接の最高裁レベルの判例はない。実質的に考えると、たとえば海外旅行中の被害者を外国人に教唆して殺害させる保険金殺人を不可罰とするのは、結果的妥当性に欠けることになる。特に、教唆犯が日本人の場合、自国民不引渡の原則により、正犯者の行為地でも処罰されないとすると、その不合理は著しい。
理論的には、共犯の可罰性を肯定し得るかは、もっぱら、依拠すべき共犯の要素従属性に関連して、正犯の構成要件該当性等が認められるか否かの問題と考えられる*2。たとえば、共犯独立性説によれば、共犯の行為そのものを観察するだけで足りるから、属地主義により正犯が処罰されないときにも、共犯の可罰性を肯定する方向に傾く。制限従属性説なら、国外犯である正犯について、構成要件該当性と違法性を要すると考えるべきであろう。本稿では、共犯理論に立ち入らないが、国外犯である正犯者にも、日本刑法における構成要件該当性と違法性が認め得ることを説明しておく。
2* 属地主義との関係で、共犯に関しても行為地を検討しなければならないことは当然である。もっとも、行為者が日本人である場合、殺人罪に関しては属人主義で処罰し得るので実益はない(後述)。
共犯の成否と要素従属性との関連は、前段のとおりと考える。ここで、正犯者の構成要件該当性については、少し面倒な問題もある。それは、「外国人による日本国外での殺人という、日本刑法が適用されない行為に関して、その構成要件該当性を問題とし得るか」という問題である。適用され得ない罰条の構成要件を議論する論理的なすわりの悪さと、これを安易に肯定した場合、行為国で許された行為、たとえばアメリカ国内での自動車の右側通行も、日本の道交法に抵触する限り、日本国内におけるその共犯者(たとえば右側通行を教唆した者)の可罰性が肯定され得るという不都合がある。平野は、正犯が属地主義によって処罰されないときにも共犯の可罰性を認めるが、この点を気にしつつ、「正犯者の行為が行為地法によっても犯罪であることが必要」としている(平野龍一「刑法総論2」p440、有斐閣)。同書には理由はないが、「犯罪である」との口吻からは、これを構成要件該当性または違法性のレベルで考えているのであろうことが憶測される。この問題に関しては、以下のように考えるべきであろう。
論理的には構成要件該当性の評価が、刑法1条1項の判定に先行する。犯罪地は構成要件を前提とする概念だからである。これを少し説明したい。たとえば、アメリカ国内でミサイルの発射ボタンを押す行為は、それによってクウェートからミサイルが発射され、イラクに着弾し殺傷の結果を生じたとすれば、殺人罪に関しては、行為地は「アメリカ」、「クウェート」、「イラク」の三者となる。これは、殺人罪の構成要件が、人の死亡という結果をも構成要件要素とするので、その中間因果関係の経由地と結果発生地を考慮しなければならないからである(いわゆる遍在説)。仮に、まったくの講学のための設例であるが、発射ボタンの衛生状態を保つために素手による接触を禁止する構成要件ならば、その行為地は「アメリカ」のみとなる。
このように、刑法1条1項は、その判定に先立って、構成要件該当性を判断することが予定されている。換言すれば、日本刑法の構成要件は、刑法の適用がない国においても、その該当性を判断し得る(すべき)という意味で、地域的普遍性を本質とすると考えられる。
一方、個々の構成要件要素は、しばしば「地域性」を持つ。これは、構成要件該当性の判断が地域的普遍性を有することとは矛盾しない。たとえば、アメリカ国内において、自動車を運転して道路の右側を通行した場合を考えよう。右側通行は、形式的には、日本の道交法に違反し罰条もある。しかし、日本の道交法は、「道路」における交通ルールを規定するものであるが、日本においてのみ、当該交通ルールが施行され得る。そう考えると、道交法の「道路」は、日本の交通ルールが行われている場所(行われるべき場所)に限ると解すべきである。アメリカの道路は道交法の「道路」でないと考えることができる。設例では、刑法1条1項によって不可罰となるのではなく、刑法1条1項の判定に先立って構成要件該当性を欠くため不可罰と考えるべきである*3。よって、共犯に何らかの要素従属性を認める限り(いわゆる最小限従属形式でも)、「アメリカ国内における右側通行」を日本国内で教唆する行為について、教唆犯が成立する余地がないとの結論になる(実行正犯に構成要件該当性を欠くから)。
構成要件要素の地域性の問題は、行政取締法規の場合、このように比較的簡単に解決し得る例もあるが、わいせつ概念などで、インターネットの国際性と関連して、問題となる。たとえば、わいせつ物の陳列を処罰しない国に設置したサーバーのハードディスクにわいせつな画像を記憶させ、インターネットを通じて閲覧させる行為の可罰性をめぐって、議論されることがある。
本論からそれるが、一応の私見を示しておく。わいせつ概念、たとえば公然わいせつ罪のわいせつ概念やわいせつ物陳列罪のわいせつ概念は、これらの行為を処罰しない国においても観念し得る(前述の構成要件の地域的普遍性)。しかし、その構成要件要素であるわいせつ性は、その地域の文化規範に基づいて判断されなければならない。たとえば、ヌーディスト・ビーチを裸で歩く行為などは、当該地域の文化規範に反しないなら、わいせつ性を有しないと考えるべきであろう。日本における混浴の露天風呂などが、たとえ外国人から奇異の目で見られたとしても、その文化規範に反しない限度でわいせつ性を有しないのと同様である。なお、わいせつ性に関しては、違法要素の地域性という考え方も可能である。当然ながら、違法要素も地域性が認められるであろう。
この例でわかるように、わいせつ性を失うのは、当該国において不可罰であるからではなく、当該地域の文化規範に反しないからである。サーバーのハードディスクに画像を記憶させた例で考えると、この場合、わいせつ性の判断は、これを合理的な方法で閲覧しえるすべての地域において、個別に行わなければならない。そして、世界の地域において、わいせつ性を失わないとすれば、わいせつ物陳列罪のわいせつ性は肯定される。これを肯定した上で*4、他の構成要件要素も検討した上で、次のステップとして、刑法1条1項の判定に向かうことになろう。
一方、刑法の構成要件的評価を離れて、実質的に考えるべき違法性については、仮に正犯者に刑法の適用がないとしても、積極とすべきであろう。本件戦争の違法性は、本稿の「本件戦争の違法性」の節を参照されたい。違法要素に地域性を認めるとしても、たとえば、ある国における戦争正当化の議会決議などによって、国際法上で違法な戦争を合法化する余地はない*5。
以上のような考え方は、結局は刑法1条1項が、構成要件該当性とも違法性とも関係なく、ある種の処罰条件であるとの考え方である。刑事実体法のレベルで考える限り、これが論理的にも結果的妥当性においても、破綻しない考え方と思われる。
3* 仮設的な事例であるが、たとえば日米地位協定に基づいて米軍基地の管理権を有する米軍当局が、基地内で右側通行を定めた場合を考えよう。基地の出入り制限の状態によっては、基地内の道路も「一般交通の用に供するその他の場所」として道交法の道路とせざるを得ないこともある。この場合は、国内の米軍基地においは属地主義による処罰排除ができないので結果妥当性に問題がある。本文で説明したように、「日本の交通ルールが行われている場所(行われるべき場所」か否かの判断に基づいて、構成要件該当性を検討すべきであろう。
4* この結論は、日本国内でわいせつ性の認められない画像についても、わいせつ性を肯定する可能性のある「武断」とも感じられる。しかし、これによって、直ちにわいせつ物陳列罪の成立が肯定されるわけではない。国家は、国外における風俗を保護する罰条を定め得るであろうが、日本刑法の当該罰条がその趣旨か否かは、保護法益などの解釈を通じて別に考慮すべきである。
5* 各国家は、国際法によって許される限り、独自の違法性阻却事由を定めることもできる。死刑制度の存する国において死刑を執行するなどである。
最後に共犯の犯罪地について説明しておく。最高裁レベルの判例は見あたらないが、下級審においては、「実行正犯の行為地がすべての共犯者の犯罪地となる」として、共犯について、その行為地についても従属性を認める例がある。これは、国外で許されている行為、たとえば自動車の右側通行の「共犯」を安易に処罰しないために、これを刑法1条1項の属地主義の問題として処理する思考に基づくものと憶測する。そして、これにしたがうなら、小泉らの行為を幇助犯をして問疑する場合、その行為地は国外となり、犯罪によっては属地主義により不可罰となる可能性もある。しかし、このような判例は、罪数などでの共犯の従属性を弱めつつある判例の流れから考えると、過去のものになりつつあると考える。結果的妥当性への配慮は、属地主義によらず、本稿で説明したように、構成要件要素や違法要素を細かく検討することによって達成すべきである。教唆犯や幇助犯の行為地は、それぞれ教唆行為、幇助行為が行われた場所と考えるべきであろう*6。
いずれにしても、本件では、幇助者の行為地が、仮に正犯の行為地にしたがって国外とされても、小泉らの殺人幇助等には属人主義(殺人罪について刑3条6号)によって日本刑法が適用し得る。小泉らに殺人幇助が成立し得るとの結論に変更はない。
6* 前掲の例に近いが、たとえば日本国内で閲覧させる目的で、外国人に教唆して海外のサーバーにわいせつ画像を記憶させた場合を考えると、教唆が国内で行われた場合のみ、その属地主義によって可罰とするのは、結果においても妥当と思われる。ほかに、大麻吸引が許された国への旅行者に、その吸引を教唆あるいは幇助する場合なども、教唆・幇助行為の行為地にしたがって属地主義を適用する結果が、不合理とは思われない。