現代中国語の発展

パシフィックエンジニアリング 中国室言語グループ編(文責:亀島
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補足

A4. 日本と中国の漢字音

 日本語と中国語は、文法構造がまったく異なり、系統的には異なった言語である。しかし、日本語は、古来、漢字とその読み方(読音)を中国から受け入れている。現在、「音読み」といわれている漢字読音は、ある時期の中国語の発音を日本語に音写したもので、多くの「音読み」は、6世紀から9世紀、中国の南北朝から隋唐代の中国語の発音を日本語の音節にあわせて表記したものと考えられている。
 もちろん、日本語も中国語も長い年月の間に発音が大きく変わっているので、現代日本語の漢字読音と現代北京語の発音は大きく異なっている。しかし、変化には規則性があるので、中国語および日本語の音韻変化を知ると、 日本語の漢字音からピンイン(Pinyin)配列の辞書を引く程度のことはできるようになる。 また、北京語以外の方言音を理解するためにも、 中国語の歴史的な音韻を知ることが有益であろう。

 幸いなことに、日本語が中国から漢字読音を受け入れた隋唐代の中国語の音韻体系は、比較的研究が進んでいる。それは、「広韻」という韻書(発音順に配列した漢字辞典)が現存しているおかげである。「広韻」自体は、宋代に刊行された辞書であるが、 底本は隋の仁寿元年(601年)の序文がある「切韻」という韻書とされる。 また、唐代には、「韻図」あるいは「等韻図」と呼ばれる、日本語の五十音図に相当するものが盛んに作られ、その一部は現存している。 これらの理由から、この時代の漢字字音はよくわかっていて、「中古音」、「隋唐音」、「隋唐代標準音」などと呼ばれている。

 一方、日本語の漢字読音(音読み)は、伝統的に「呉音」・「漢音」と呼ばれる2系統*1がある。 呉音の方が少し古い時代(奈良時代前期まで)に輸入された音、 漢音はより新しい時代の音とされている。 どちらも中国の「中古音」または「隋唐代標準音」を反映していると考えられている。これらのほか、宋代以降の音韻を反映するとされる「唐音」と称する系統の読音もあるが、これは、数種の読音の総称であり、漢字読音として組織的に用いられるものではない*2

1*漢字の呉音/漢音をいくつか例に挙げてみよう。 正(ショウ/セイ)、極(ゴク/キョク)、一(イチ/イツ)、馬(メ/バ)、経(キョウ/ケイ)など。 現代日本語では、一般的に漢音の方が広く使われている。 呉音は仏教に関係する単語に多い。 また、 呉音と漢音は同じ単語に同居しない傾向がある。 もっとも、例外は多々ある。

2*「行燈(アンドン)」や「蒲団(フトン)などが唐音の例とされるが、鎌倉仏教と関連させられる中世唐音と黄檗宗と関連させられる近世唐音(「宋音」と称して区別することもある)に分けることが一般的である。


1. 中国語側の音韻変化

 中国語の音韻変化*1には、 よくわからないことが多い。 前述のように「中古音(隋唐音)」は比較的よく研究されているが、 その後の音韻変化はほとんどわかっていない。 実は、「広韻」などの韻書に書かれた音韻は、 長い間中国で規範とされた。 そのため、 実際に話されている言葉では発音が変わってしまっても、 辞書に書かれた発音は古い時代のまま保たれ、 作詩の際の押韻などは古い発音を基準にされていた。
 隋唐代の中古音以外で研究が進んでいるのは、 元代以降の発音である。 その理由は、元代に流行した口語劇 (元曲) に対応した辞書(「中原音韻」)が現存しているからである。 元代の発音は、政治中心地が洛陽・長安や南京付近から大都(北京)に移ったこともあって、 現代北京音にかなり近い。
 中古音以降の音韻変化には、「弱唇音の分化」、「入声の消滅」、「濁音の消滅」、「舌面音化」の4つが挙げられるが、このうち、「弱唇音の分化」は唐末から、「入声の消滅」および「濁音の消滅」は、ほぼ元代までに進行した変化と言われている。最後の「舌面音化」は清代以降の変化である。

1*漢字が表音文字でないため、古い時代の音韻を推測させる資料は限られている。 資料としては、 各時代の詩の押韻が利用されるほか、先秦時代の音韻は諧声符(形声文字の発音を表す部分)、 宋代は経書に対する朱子などの注などが利用される。 隋唐代および元代以外は、 資料が断片的なため、 音韻体系の復元は困難を極める。 それに比べれば、明清代以降は資料が多い。

1.1. 弱唇音の分化

 「唇音」とは、日本語の「パ」行、「バ」行や「マ」行の音のように「p、b、m」などであらわされる子音である。唐代の後半ごろ、「p、b、m」の一部が「弱唇音」に変化したとされている。その根拠は、「広韻」では区別されていない「美」と「微」などの子音が唐末以降の韻図では、区別されるようになったことにある。つまり、「微」などが「弱唇音」に変化したのである。たとえば、「美」、「微」は日本語音ではどちらも呉音/漢音が「ミ/ビ」で区別されないが、現代北京音では、「mei]」、「wei」と区別されている。 どうやら、唐代後半の時期から区別が生じたらしい。
 「弱唇音」の音価に関する確実な証拠はないが、一般には、「p、b」の一部が英語の「f」に、「m」の一部が英語の「v」に近い発音に分化したといわれている。明清代以降に、「v」の音がさらに弱化して消失。「微」は「wei」という現代音になった。

1.2. 入声の消滅

 「入声」とは、四声*1のひとつで、 「k、t、p」の子音で終わる音節(漢字の字音)である。
 現代北京語では、 音節(漢字の字音)は母音で終わるか「-n、-ng」で終わるかのどちらかしかない。 しかし、 隋唐代の中古音では、 「k、t、p」で終わる音節があった。 これが「入声」である。
 たとえば、 数字の「ー」、「六」は、日本語で「イチ」、「ロク」と発音している。これは、中古音で英語の "it"、"lock"に近い発音であった字音を日本語が受け入れた結果と考えられる*2 *3。 中古音では「ー」、「六」は、それぞれ「-t」、「-k」で終わる「入声字」であった。しかし、その後中国では、「-t」、「-k」が消失したため、現代北京音では、それぞれ「yi(イー)」、「liu(リウ)」となっている。
 元代の「中原音韻」では、 入声は消滅して「ー」、「六」などの入声字は他の声調に分類されている。 元代前後に入声が消滅*4したことは確実らしい。

1*隋唐代の中古音あるいは伝統的な声調(アクセント)は、平声・上声・去声・入声の4種で四声と呼ばれる。 このうち、 平声は「陰平」、「陽平」に分けられる。 陰平・陽平・上声・去声は、それぞれ現代北京音の1声・2声・3声・4声にほぼ対応する(本文で説明したように、入声は消滅)。

2*日本語の漢字音(もちろん音読み)が、「チ」、「ツ」で終わる文字(「一」、「日」、「月」など)は中古音で「-t」(まれに「-p」、下記注3*参照)で終わる入声字、「キ」、「ク」で終わる文字(「木」、「各」、「作」など)は中古音で「-k」で終わる入声字である。 また、歴史的仮名遣いで「フ」で終わる文字(「合(ガフ)」、「葉(ヤフ)」)は「-p」で終わる入声字である。 日本語の音韻変化(後述)の結果、「合」、「葉」の現代日本語音はそれぞれ「ゴウ」、「ヨウ」になり、「-p」で終わる入声字が発音の上で区別できなくなった。

3*「-p」で終わる入声字に関しては、日本語でいわゆる慣用音が生じたものが多い。たとえば、「十」は、「-p」で終わる入声字で、日本語の漢字読音では呉音・漢音とも「ジフ」(現代かな表記で「ジュウ」)であるべき文字であるが、「十方」を「ジッポウ」とするなど「ジッ」という慣用音が広く用いられている。「摂」や「執」などは、「-p」で終わる入声字であるが、もっぱら「セツ」、「シツ」という慣用音が用いられる(仏教界では、「摂受」を「ショウジュ」、「執持」を「シュウジ」という伝承音を伝える仏教教団があるが、これは「摂」、「執」の中国音と対応した本来の発音「セフ」、「シフ」に近い)。

4*官話方言(北京を含む北方の方言分区)を除く中国各地の方言には、 現在でも広範囲に入声が残っている。 特に(Min3、ビン)方言(福建語)や粤(Yue4、エツ)方言(広東語)などは「-k、-t、-p」の区別を完全に保存している。 入声の消滅と次項の濁音の消滅の消滅は、 時代的な変化より政治中心地の変化の影響の方が大きいかも知れない。(-->「用語集」の「官話」の項)

1.3. 濁音の消滅

 現代の北京音では、 子音は有気(送気)、 無気(不送気)*1の2種しかない。 隋唐代の中古音では、有気、 無気の清音のほかに濁音があった。 たとえば、「足」と「族」は、 現代北京音ではどちらもPinyin表記で「zu」となり区別されないが、 日本語音は「ソク」と「ゾク」で異なる。 実際、「族」は唐代の中古音では濁音であった。
 入声の消滅とほぼ同時期に濁音も消滅して清音になったと考えられている*2

1*伝統的には(韻図などでは)、有気音、 無気音はそれぞれ「次清音」、「全清音」と呼ばれている。 現代北京語では、Pinyin表記で「p/b」、「k/g」、「t/d」などの有気/無気の対立があるが、濁音はない。 (Pinyin表記の「b、g、d」は無気の清音で濁音ではない。)

2*元代の韻書「中原音韻」では、濁音が完全に消滅しているため、 濁音の消滅は、入声の消滅より少し早く完了したと推定される。 日本の漢字音でも、漢音の一部では、清濁の区別を失っている。また、 この変化は相当全国的な規模で起こったらしい。呉(Wu2)方言 (上海語)など一部の方言では濁音が保存されているが、 中国最南端の粤(Yue4、エツ)方言(広東語)でも濁音は消滅している。

1.4. 舌面音化

  Pinyin配列の辞書を一見すると「j、q、x」で始まる漢字が異様に多いことに気づく。 舌面音(Pinyin表記で「j、q、x」)は、現代北京音(官話方言)で非常によく使われる子音である。 これらの子音は、 元来区別されていたそれぞれ2個の子音が清代以降に合流した結果発生した。 「g、k、h」または「z、c、s」(Pinyin表記)に「i」または「」の母音が続くとき、 子音が「j、q、x」の舌面音に変化*1して「g、k、h」と「z、c、s」の区別が失われた。
 たとえば、隋唐代の中古音では区別されていた「極」も「即」(日本語音ではそれぞれ「ゴク/キョク」、「ソク」)は、現代北京語では「ji」で同じ発音になってしまった。

1*現代北京音では、「j、q、x」に続く母音は「i」または「」に限られる。 ただし、Pinyinでは、「j、q、x」に「」が続くときは、 「ju、qu、xu」と表記する。

2*この音韻変化は、 官話方言(北京を含む北方の方言分区)以外の方言には及んでいない。 また、王力「漢語語音史」によれば、 官話方言でも「g、k、h」および「z、c、s」の区別を保つ地域があるほか、伝統演劇である京劇でも区別が保たれているらしい。


2. 日本語側の音韻変化

 日本語の音韻変化は、 中国語の音韻変化に比べれば、はるかによくわかっている。 その理由は、日本語のかな文字が表音文字なので音韻研究には有利であったからで、 かな文字成立以前も「万葉仮名」による表音表記が行われていたので、奈良時代頃の音韻も相当よく分かっている。 (もっとも、漢字を輸入する以前の音韻はほとんどわからない。)
 日本語と中国語の漢字音を比較する上で重要な音韻変化は、「は」行子音の変化であろう。

2.1.「は」行子音の変化

 現代日本語の「は」行子音は、 「フ」を除いて、 現代北京音の「h(Pinyin表記)」や英語の「h」に近い子音である。 しかし、 平安時代以前の「は」行子音は、現代日本語の「フ」の子音や英語の「f」に近い音であったことが分かっている。 「は」行は、「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」に近い発音であった。 もっと時代をさかのぼると、 「は」行子音は、 英語の「p」に近い音*1であったと言われている。
 日本語が中国から漢字読音を受け入れた隋唐代の中古音で「h」の子音は、 その当時の日本語に「h」の子音がなかったため、 日本語に音写される際に「か」行または「が」行の音にされた。 たとえば、「花」や「化」は隋唐代の中古音で「hua」、日本語の漢字音は「ケ/クワ」(現代仮名遣いでは「ケ/カ」)である。 また、「-p」で終わる入声字が、「フ」で音写されたことは前述した。(-->「1.2. 入声の消滅」)

1*中国語の音写方法(隋唐代の中古音と日本語の漢字音の対応)が有力な証拠とされる。 また、 日本語の五十音図で「は」行が「ま」行の前に配列されていることも傍証と考えてよい。「は」行子音を「p」と考えると、「は、ま」が「p、m」でどちらも唇音になり、五十音図の子音配列を合理的に説明できる。なお、奈良期の万葉仮名では、「は(ば)」行は、「ハ、ヒ(甲)、ヒ(乙)、フ、ヘ(甲)、ヘ(乙)、ホ」の7種のほか、対応する濁音があるが、半濁音(「パ」など)はない。

2.2. 歴史的仮名遣い

 「音韻変化」として紹介するには異質だが、 日本語と中国語の漢字音を比較する上では重要な問題である。 日本語が中国語の漢字字音を受け入れたとき、 日本語の発音としては相当に無理をしながら中国語を忠実に音写しようとした形跡がある。 前述した「花、化」などの「クワ」、「観」などの「クワン」などの音読みが作られた。 平安時代のある時期、かな文字が作られた当時は、書かれたとおり発音されていたに違いない。
 しかし、これらは日本語の発音として無理があったので、まもなく「クワ」は「カ」、「クワン」は「カン」の発音に変わってしまった。 日本語全体の音韻変化とは関係がないが、 外来語の発音を発音しやすいように変形してしまった。 (その結果、 日本語の発音では「花」と「下」の区別が失われてしまった。)
 平安末以降は、 中国語の音写で発生した音節は、「シャ」、「シュ」、「ショ」などが「拗音」として日本語に定着したほかは、 「クワ」、「クワン」などは古い時代の発音表記を化石的に残した「歴史的仮名遣い」(「字音仮名遣い」とも称される)となってしまった。


現代中国語とは?」の補足として本稿のほかに「A1. 現代中国語の成立小史」、「A2. 中国語の表音方法 - ピンインと注音字母」、「A3.漢字の近現代史」、 「用語集」があります。
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この項の参考文献は、 下記のほか、 「A1.補足 現代中国語の成立小史」の末尾に一括して掲載した。 なお、「広韻」、「中原音韻」は、各種の影印本が簡単に入手できる(もちろん、筆者は影印本の校合をしていない。)

References

王力「漢語語音史」1985年、中国社会科学出版社
魏建功「古音系研究」1996年、中華書局